睡蓮が悲痛な面持ちでその帰宅を待っていたとは露知らず、雅樹は笑顔で玄関の扉を開けた。その瞬間を見計ったかの様に足元にクッションが勢いよく投げ付けられた。
「えっ!な、なに!」
突然の出来事に呆然となっていると今度は皿に乗ったパウンドケーキが廊下に叩きつけられた。雅樹はその衝撃音に思わず飛び上がった。
「睡蓮、どうしたの!」
「心配だからって..........お義母さんが味見していたわ!」「なんの事!」「ケーキにお酒が入っていたら赤ちゃんに良くないからって!」「..........赤ちゃん、母さんがそんな事を言ったのか」睡蓮は髪を振り乱し仁王立ちになって雅樹を睨み付けた。
「赤ちゃんが出来る筈なんて無いわ!」
「睡蓮...........落ち着いて」「だって雅樹さん、手もつな.......つなが........ながいし!」頬は涙で濡れ声は震えていた。
「キスだっ.......てしていないじゃない!」
「睡蓮、ごめん」「ごめんってなにが!?」睡蓮の怒りの在処が分からない雅樹は戸惑った。
「母さんには赤ん坊の事は話さない様に言い聞かせるから」
「そういう事じゃ無いでしょう!」「睡蓮!睡蓮、落ち着いて」雅樹は床で無惨に崩れたパウンドケーキを跨ぎ睡蓮を抱き締めた。
「睡蓮、ごめん」
睡蓮は背中に回された優しい手に応える事はなくその腕は悲しげに垂れたままだった。とめど無く流れる涙はやがて嗚咽に変わり雅樹はその亜麻色の髪を撫でた。
「............810号室」<